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山本耕史

山本耕史 1976年10月31日生まれ B型
2005年、エランドール新人賞、ギャラクシー賞月間賞(04.05月度)・同年間奨励賞、2004年ザ・テレビジョン・ドラマアカデミー助演男優賞 ほか

山本耕史公式サイト

オススメグッズ

新選組!!土方歳三 最期の一日
新選組!!土方歳三 最期の一日
2006年1月にNHKにて放送された、三谷幸喜脚本の大河ドラマ「新選組!」の続編を収録したDVD。激動の時代を生きた土方歳三を主人公に、彼の最後の一日を熱く描く。山本耕史、片岡愛之助、照英ほか出演。
新選組!完全版 第壱集DVD-BOX
新選組!完全版 第壱集DVD-BOX
三谷幸喜脚本、香取慎吾をはじめとする豪華キャスト出演で話題になった2004年NHK大河ドラマがDVDで登場!幕末を駆け抜けた新選組隊士たちの生き様がここに。第1~27話収録。
新選組!完全版 第弐集DVD-BOX
新選組!完全版 第弐集DVD-BOX
三谷幸喜脚本、香取慎吾をはじめとする豪華キャスト出演で話題になった2004年NHK大河ドラマがDVDで登場!幕末を駆け抜けた新選組隊士たちの生き様がここに。後半の第28~49話収録。

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2005.12.30

撮影担当に聞く!!

大事にしたのは三者三様の芝居をじっくりと見せること

撮影担当:永野 勇さん

今回の撮影でチーフカメラマンを務める永野勇さんも、大河ドラマ『新選組!』から引き続いての登板です。土方の最期まで見届けることになり、その生き様に改めて感動したと言う永野さん。正月時代劇『新選組!!土方歳三 最期の一日』へのこだわり、土方に対する思いなどを聞きました。

—————— 続編が決定して、引き続き担当されることが決まった時は、どんな気持だったのですか?

永野  やっぱり嬉しかったですね。大河ドラマ『新選組!』は近藤勇の処刑で終わり、土方歳三のことはエピローグとして少し描かれましたが、きちんとした形で最後に花を咲かせて上げたいという気持がありました。そんなスタッフの1年越しの思いが実り、また土方役の山本耕史さんに会えるというのが、すごく嬉しかったですよ。

—————— 土方への思いであり、山本耕史さんへの思いでもあったんですね。

永野  大河ドラマの撮影現場で接した山本さんの人間性にひかれていましたからね。当時はよく撮影終了後、スタッフや共演者と飲む機会があったのですが、そういう場を設けてみんなをまとめてくれたのは山本さんです。率先して座長のような役割を引き受けたり、またスタッフに対する気遣いもすごかったですね。だから自然にみんなが「耕史くん、耕史くん」と集まっていく。僕らもすごく仕事がしやすかったんです。今回、また山本さんに会えるというのはすごく嬉しかったのですが、最初は少し緊張しました。でも「久しぶりだね」と山本さんが笑顔を見せてくれたのでホッとしたんですよ。

—————— どんな思いで撮影に臨まれたのですか?

永野  『土方歳三 最期の一日』なので、土方に凝縮はしていますが、それだけではありません。今回は榎本武揚と大鳥圭介を加えた三者三様の生き様が描かれていますから。独立国という構想を胸に抱いている榎本。近藤勇の思いを引き継ぎ、また共に戦ってきた新選組の仲間たちの死をムダにしたくないと、立ち向かっていった土方。大鳥もまた最後まであきらめたくなかった。土方にしても、榎本、大鳥にしても、彼らは体制の中で戦ったのではなく、反体制の立場だったけれど、純粋に世の中に一石を投じようとしたんですよね。最後まで夢に挑んでいく男のロマンとでも言うのかな。僕もそんな彼らの生き様から学んだところがすごくあります。それが少しでも伝わればと思いながら撮影していましたね。

PICT1026

—————— 具体的に工夫されたり、意識されたことは?

永野  山本さんはもちろん、歌舞伎でやってこられた片岡愛之助さん、舞台の多い吹越満さんと本当に素晴らしい役者さんが揃ったでしょう。そういう人たちがのびのびと芝居をやってくれればいいな、三者三様の芝居を出来るだけ長く撮りたいなという気持がありました。演出の吉川邦夫さんも同じ思いで、カットを切っていくのではなく、芝居を止めずに三者三様の気持や雰囲気を見せていくという手法をとったのです。だから、僕もそれなりに、いろいろなカメラワークをやりましたが、基本は芝居を素直に見て貰うのが一番ということでした。

—————— 3人の芝居は五稜郭が舞台。独特のセットでしたね。

永野  そうなんですよ。セットというより、105スタジオに実際の家を建てたような状態なので、ふつうの民家でロケをしているような感じでしたね。時間帯は夜のシーンなんですが、二階建てや中二階に望楼があり屋根も付いているセットですから、セットっていうと中二階ですよね。ああいう大きなセットで屋根も付いてきたりというところで、明かりも非常に苦しくて大変だったと思います。動きに制約を与えないために、器具もそんなに使えないので、最小の器具でなおかつ奥行きのあるセットの最奥部にも明かりを当てていかなくてはいけない。照明がすごく苦労しながらも工夫して器具を上手に隠しながらやってくれたんです。だから、けっこう狭いスペースの中でもカメラが動き回って撮れたんだと思いますね。

—————— あのセットの中で3人の役者さんが自由に動き回り、それを追いかけて撮るというのは、いろいろな意味でご苦労が多かったんですね。

永野  スペースが狭いのでスタジオでは戦争状態(笑)。しかし、音声も大変だったんですよ。3人が遠い位置に立って芝居をすることがあります。そういった距離が離れていてもしっかりとした音を録るというのは難しいんです。だけど、その雰囲気をすごく大事にして「これでは音は録れないよ」ではなく、それなら音をどうしようと考えてくれる。マイクを体に仕込むなど、本当にみんながいろいろなことを考えて撮影が進んだんです。そういった意味では、みんながよくまとまった現場だし、総合的に非常にうまくやれたんじゃないかなと思っています。

—————— それほど多くはないけれど、今回は土方の殺陣のシーンも印象に残りましたが・・・。

永野  動的な彼の勢いをとらえるために、カメラを三脚に据えて客観的に撮るのではなく手持ちカメラを使うとか、遠くからの長回しで切り込んでいく姿を撮るということはしました。カメラの工夫というより、土方というか、山本くんの気持や勢いを映像にのせていきたいという思いで撮っていました。

—————— すべて撮りきった今の気持は?

永野  終わったという感覚はないです。土方や近藤勇といった人たちの気持は、ずっと心の中に残っていますからね。だから終わったのではなくて、僕はこの番組を通して学ぶことがすごく多かったという感じです。多摩の百姓だったからこそ、彼らは武士になりたいという夢を見たし、多摩という土地で生きたからこそ、彼らは純粋に徳川幕府を守り、戦いを挑み、大きくいえば改革を目指した。土地柄や風土が人間を育てるということを、今回はすごく実感しました。今までも理屈ではわかっていたのだけれど、やはりこのドラマをやったこと本当に自分で感じることが出来た。それがすごく良かったですね。

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2005.12.29

音声担当に聞く!!

究極の音声表現で土方の最期を・・・

音声担当:山賀 勉さん

大河ドラマ『新選組!』で音声を担当した山賀さん、今回も引き続きということになりました。多くのスタッフ同様、土方役の山本耕史さんの人柄にひかれたという山賀さんに、今回の正月時代劇『新選組!!土方歳三 最期の一日』で表現したかったことなどを聞きました。

—————— 大河ドラマ『新選組!』の続編が作られることを聞いた時、さらに山賀さんが再び担当されることが決定した時、どんなお気持ちでしたか?

山賀  1年前と同じスタッフで仕事が出来るという楽しみと共に安心感を覚えました。また、鬼の副長「土方歳三」フリークの私の娘からは「お父さん良かったじゃない!」なんて言われちゃいました。

—————— 今回は土方に焦点が絞られたドラマになるわけですが、そのことに対する感慨のようなものはありましたか?

山賀  土方歳三への思い入れは特にありませんでしたね。ただ、大河ドラマ『新選組!』を撮影中、香取慎吾さんをいつもいたわり元気づけていた山本耕史さんのファンになりました。

—————— ディスカッションドラマという形で、後半は膨大なセリフのやりとりが延々と続いたわけですが、音声上で苦労されたり、こだわったことは?

山賀  セリフの収音で苦労したのは大鳥役の吹越満さんです。吹越さんの持ち味でもあるのですが、山本さんや片岡愛之助さんと比べると声のトーンを落としてのお芝居が多かったんです。また動きながらのお芝居が多かったことで、広めの映像が多用されたことも苦労の一因でしたね。ポスプロ(映像編集後の音処理)においては、3人のセリフに統一感をもたせるのに苦労しました。

—————— 大河ドラマの時と同じように、五稜郭は奥行きのある独自のセットでしたね。映像的にも手前から奥まですべて映るようなカットがよく見られたのですが、こういうセットが音声に与える影響というのは?

山賀  映像に奥行きがあるということは、音でも奥行きのある表現が出来るということで好ましいことだと思います。しかし、役者さんのセリフを録るということとなると全く逆で(笑)、セリフの録りづらいセットということになりますね。今回の五稜郭セットは、総天井で、なおかつメインの芝居場である会議室の中央には、ろうそくのシャンデリアが釣り下がっていたため、ベストなマイクポジションがとれずに収音には相当苦労しました。また総天井による音の“抜け”(天井の反射音などを拾ってしまい音がこもった感じになる)が悪く、明瞭度を保つのにも苦労しました。

 長セリフ・長回しでなおかつ動きが伴ってくると、これも収音には相当気を遣います。セリフはもとより役者の動きや顔の向き、カメラのサイズまでをも確認しつつベストなマイクポジションでセリフ収音をしなければなりません。しかし優秀なブームマンの働きによって、満点に近い音でセリフを録ることが出来ました。感謝・感謝!

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—————— 土方の最期のシーンに込めた思い入れやこだわりは?

山賀  土方歳三の最期は、「“悲しくもあり美しくもありたかった”」。そして共に生きてきた近藤勇(香取局長)との「“2人の世界”を創りあげてやりたかった」と言うのが本当の気持です。詳しい状況は省きますが、いよいよというシーンでは、あえてノンモン(無音)にすることで、土方の悲しさ“ひとりの世界”を表現しました。そして決定的な場面では、ある工夫をすることで “2人の世界”を表現しています。これは演出の吉川さん、そして音響効果の小野寺さんと共に悩んだうえで採用した方法でした。無音は究極の音声表現であり、土方歳三の最期はいかなる音をもってきても表現しきれなかったと感じます。

—————— すべて撮り終わった今の気持は?

山賀  私はドラマを作るのに作品によって気持の入れ方を変えるということはありません。どんな場合でも、全力で良い作品になるように努力します。だからこれが他のドラマと何かが違うというふうには感じません。ただ、正月時代劇『新選組!! 土方歳三 最期の一日』は、私が今まで作ってきた作品の中でも、心に残る作品のひとつであることに間違いないと思います。またまたドラマ作りが好きになりそうです。

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2005.12.28

美術担当に聞く!!

それぞれの思いを大切に最高グレードの美術を目指して……

映像デザイナー/岡島太郎さん
美術進行/田中裕さん 佐藤綾子さん

大河ドラマ『新選組!』のこだわりのセットや小道具で定評のあった美術チームが集結。再び、“愛とこだわりと遊び心”を発揮しています。今回の正月時代劇『新選組!!土方歳三 最期の一日』への思いや、こだわりポイントを聞きました。

————— 今回ならではのこだわりポイントは?

岡島:大河ドラマ『新選組!』(以下本編)を通してこだわっていたことは、資料があるからと言って何かを忠実に再現することはしないということでした。再現では台本を表現することにならない、美術として伝えたことにならないですからね。それだけは今回も貫こうかなと。

—————— 具体的には?

岡島:たとえば土方歳三の写真が残っているからといって、そっくり再現しているわけではない。見比べてもらえばわかるけれど、刀も全然違うものです。それより小道具(持ち道具、装飾)、大道具、造園など、それぞれのスタッフに思いがあるわけで、彼らが自分たちの考えで突き進んでいった。再現することより、そんな現場でがんばってくれた人たちの思いを大切にしながら、やっているという感じですね。

—————— 勇のお墓にほこらを用意したのもそんな一例ですね。

岡島:そもそも台本では墓標となっていたけれど、僕は、あまり“墓”という感じにしたくないと思ったんですよ。なぜなら近藤勇の肉体は死んだけれど、みんなの気持の中では死んでいない。だから墓標じゃないだろう、勇を象徴する場所であってほしい。そういう話を最初の打ち合わせの時にしたんです。でも、あれは墓に見えるんだよな(笑)。
田中:でも、そんな思いから、本編の第2話で勇と歳三が多摩で別れた時の道しるべだったほこらが、形を変えてあそこに登場したわけです。

—————— 函館山のセットもスタジオとは思えないものでした。

岡島:あそこでは季節に関係なく枯れ木をたくさん配しています。函館山は土方たちが必死で戦っている場所です。枯れ木のように生を感じさせない物があることで、その中で生きようとしている人間たちが目立つからです。それに葉っぱで覆われていない枯れ木なら、その向こうまで見通せますからね。後ろが見えなくなるのが嫌いなんです。

—————— ほとんどのセットはすべて奥まで抜けて見えるというのが本編の時からの特徴ですね。

岡島:やっぱり三谷幸喜さんの芝居の世界を表現するには、ワンステージで見せるセットが基本だと思うんです。劇場の舞台は一幕一場でも役者さんがある場所に立ち、そこにスポットが当たると、まったく違う部屋が浮かび上がったりしますよね。それと同じことができないかなと思ったわけです。

—————— 五稜郭も会議室、廊下、庭など全体が見渡せるセットですね。

岡島:土方や榎本、大鳥などが、どこかに落ち着いて話をするのではなく、動きながら話したり、歩き回ったりできる。舞台と同じように、役者さんたちが、どこにいても見えるし、どこへでもそのまま歩いていけるということです。

—————— ほかに全体を通して特徴的なことは?

岡島:ほぼ全編、スモークがかかったような映像で土方のベースカラーである“赤”、 松明の火の“赤”、誠の旗の“赤”がよく映える映像になっています。

—————— 誠の旗といえば歴戦でぼろぼろ状態。あれは誰が?

佐藤:美術スタッフみんなでやりました。バーナーやカッター、やすり、はさみ片手に105スタジオに集まりましたね。最初の一刃は誰でしたっけ。
岡島:僕(笑)、みんなやらないんだもの。
佐藤:やっぱり、ためらいますよね(笑)。
岡島:そういうのを、ためらっちゃいけない。新選組も最後まで攻めていたのだから、こっちも攻めないとね。

—————— スタッフみんなも攻めの姿勢になっていったわけですね。

佐藤:こんなにスタッフの思い入れが強い番組はほかにないんじゃないかしら。
田中:僕は番組がスタートする時から、「最高グレードの美術にする」という思いで取り組みました。もちろん、どんな番組でもそう思っているけれど、今回はそれ以上。大河ドラマが正月時代劇になるということ自体、初めてのことだし、まして当時、熱い思いで取り組んだスタッフが集まったわけですからね。その一員として携わるからには最高グレードの美術にしたいと思ったんです。ただ、その思いを一つ一つ実際に表現していくのは難しかったですね。

—————— それだけの思いで取り組んだ番組の撮影が終了した時というのは、どんな気持になるものですか?

岡島:撮影はなくなるから、腑抜けになって何もやりたくなくなってしまう。だけど細かく見ていくと、ああ、あそこはやり直したいなとか、もう一回やりたいと思うことばかり。物語は終わっても、スタッフの中で番組は終わってないんですよ。
田中:でも、僕は打ち上げで本編の時から一緒にやっているスタッフと握手したりした時に「ああ、3年半が終わったな」って思いましたね。
佐藤:私は放送を見るまでは、終わった気にはならないかも知れない。お正月を迎えて3日の日に家でオンエアを見ることになるのかな。それを見たときにどう感じるのかなー。いずれにしても、それまでは、まだ終わった気がしないでしょうね。
田中:それにしても新選組だけで3年半を費やせるって、すごいことだよね。演出の吉川邦夫さんは5年って言ってけど(笑)。

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—————— 今回は担当できなかった本編のスタッフたちも、うらやましそうにスタジオを訪ねてきました。

岡島:そういう思いでスタジオに来るのもやっぱり仲間なので、その人たちも一緒にやってきたってことなんですよね。途中から参加した人、抜けた人、最初からずっと関わった人、それぞれだけど関わったらみんなが全力。それでいいと思うんですよ。

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照明担当に聞く!!

“多摩のヒーロー・土方歳三”を最高にカッコよく!

照明担当/関 康明さん

大河ドラマ『新選組!』に続いて照明を担当する関康明さんは、土方歳三の故郷・八王子の出身。それだけに、新選組、そして土方に対する思いは人一倍強いものがあります。情熱いっぱいに取り組んだ今回の正月時代劇『新選組!! 土方歳三 最期の一日』で、最も力を注いだ部分や、こだわったことなどを聞きました。

—————— 地元の人間にとって土方歳三は、やはり特別な存在だったんですか?

関  僕の通っていた高校の隣は土方歳三のお墓がある石田寺だし、土方の生家も歩いて2,3分のところでしたからね。子どものころから“多摩のヒーロー”として身近な存在だったんです。よくお墓参りにも行きましたが、そこに来訪者が記入するノートがあって、それを見ると熱烈なファンが大勢いることもわかり「すごい人がこのあたりにいたんだな」と、ますます誇らしい思いがしたものです。

—————— 今回は土方歳三の最期を描くドラマですから、いっそう気合いが入ったのでは?

関  そうですね。ドラマの照明というのは伝統的に女優さんに対してはすごく気を遣うところがあり、男性はどちらかと言えば「置いといて」(笑)みたいな傾向が強いんですよ。そんな中で、僕は、今回は土方がカッコよく見えなければ、このドラマは終わりだというふうに思っていたんです。そこで微力ながら、まず土方をカッコよく見せるということを最優先で考えました。照明の角度や強弱をつけることによって、厳しさや優しさ、カッコいい表情など、全編通して土方がすごくカッコよく見えることにこだわったつもりです。

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—————— 2つめのこだわりは?

関  美術が五稜郭のすごいセットを作ってきたので、それをしっかりと見せるということにこだわりました。いかに奥行きがあるように見せるか、雰囲気を出せるか、本当に頑張りました。また、吊りのシャンデリアや洋風の家具、たとえば椅子に張られた別珍などの質感がよく見えるようにすることにも相当にこだわりました。結果的に雰囲気のあるきれいな映像になったと思います。

—————— 土方の表情、セット、もう一つは?

関  放送が正月なので、いい気分で見てもらえるということを意識しました。暗くどっしりとしたトーンで作っていくと重厚にはなるのですが、1年に1回、家族や親戚が集まってテレビを見ている時に、それはどうなのかなって。重厚にしたくなるところをちょっと我慢して(笑)、顔の表情とかセットが見えるように、出来るだけ明るくすることを意識しました。その3つが大きな柱ですね。

—————— いくつも要素があり、大変そうですね。

関  たしかに難しいセットなので入念な打ち合わせが必要でしたが、逆にセットの良さに助けられた部分も多いんですよ。ふだん僕はセットっぽく見えるのがいやで頑張るんですね。それがうまい感じに上がってくると「とても渋谷区神南2−2−1(NHKの所在地)で作ったようには見えない」なんてふうに言うんですけど(笑)。そういう意味では、今回のセットは本当に箱館にあるように見える、箱館の空気感がよく出ていたのかなと思います。

—————— ディスカッションドラマとも言われるように、後半は土方歳三、榎本武揚、大鳥圭介の3人が膨大なセリフの応酬をするシーンがほとんどです。そこで工夫されたことは?

関  1日の流れの中で進行するドラマですが、実はシーンのほとんどが夜なんです。朝になるとすぐに終わってしまうので、大きい流れで言うと“夜と朝”という2つの変化しかない。照明的には、ある種、単調になりがちなんですね。芝居も1か所で延々やっています。そうなると、芝居が動かない分、カメラを動かす。カメラが動かない時は役者を動かす。そういうことを監督がいろいろ考えています。言葉の応酬、掛け合いなど、延々とセリフ芝居が続く中、僕はそのテンポというのをとても大事にしたいと思ったんです。

—————— テンポをこわさないような照明ですか?

 たとえば照明のことだけに100%、120%こだわったら、長いシーンをカット撮りにしてもらうことも考えられます。それによってより効果的な照明にすることもできる。でも、それは役者さんや、撮影するカメラに制約をかけることになってしまう。それでも、その方法がいいという場合はもちろんあります。ただ、今回は出来るだけ役者さんがセリフをスムースに出しやすいように、感情移入しやすいようにスタジオの流れを作るというところに気を遣ったんです。照明が全面に出過ぎず、むしろ、のびのびと芝居をさせてあげるような雰囲気ということですね。セットをしっかり見せることで重厚な趣のある空気を作りあげ、そこで役者さんが自由に動けるということに力を入れました。

—————— 夜から朝の流れ。その切り替えでポイントになったことは?

関  前夜から3人が延々と話し合い、どんどん気持が高ぶっていくという芝居の後、朝になって土方が1人、部屋に戻るシーンがあります。ここはすごくシンプルだけれど、照明としては雰囲気作りに頑張れたところですね。ずーっと夜で来たところをぱっと朝に変わるという印象的なシーン。カッコよく言えば心情表現となるのかな。でも、それよりも土方が一番カッコよく見えるいいシーンなので、出来るだけセットを見せず、土方だけに目がいくようにするということを意識しました。

—————— 照明が際だつ時と引く時とあるわけですね。

関  映像が仕上がった時、目で見てわかるような照明のメリハリというよりも、番組全体として成功するように、ちょっと引くところとか出るところ。その緩急や、目に見えない部分でのメリハリをつけていったということです。

—————— すべて撮り終わった今、土方に対する思いは?

関  ホッとしたというのが一番かな。僕にとって友だちのように身近な意識をもっていた土方が正月ドラマの題材に選ばれて、自分もそれに携われた。そして、とてもいい作品に仕上がった。本当に素直に嬉しいなという感じがあります。みんなに見ていただいきたいですね。とくに男の子としては(笑)、土方歳三の真っ直ぐな生き方に共感できる部分が多いと思います。皆さんにもその思いを広げていくことが出来たらドラマ冥利に尽きます。それに、近藤勇は調布でしょ。不思議なもので八王子の人間からすると、やっぱり「歳三が日本一」なんてふうにちょっと思ったりするわけですよ。だから、新選組っていうより、土方歳三に焦点を当てられたってことに「どうだ!」みたいに鼻が高いですね(笑)。

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2005.12.26

時代考証・山村竜也さんに聞く(パート3)

3.新政府軍との戦い、土方歳三の最期
 
山村竜也さんによるインタビューシリーズ最終回は、宮古湾海戦の話と土方歳三が最期を迎えた日の前後についてお話いただきました。このインタビューシリーズを読んで、正月時代劇『新選組!!土方歳三 最期の一日』を10倍楽しんで下さい。

——— 明治2年(1869)春の雪解けとともに新政府軍が北上してきますが、そこで箱館政府軍は敵の先手を取る行動を起こしていますね。

山村 はい。榎本武揚らの首脳陣が、仙台の北の宮古湾に停泊する新政府軍の艦隊に奇襲をかけ、敵の最新鋭鑑「甲鉄」を奪い取る計画を立てたのです。

——— 宮古湾の奇襲と呼ばれる海戦ですね。なぜ「甲鉄」を狙ったのですか?

山村 箱館政府軍の軍艦は8隻ありましたが、本当に頼りになるのは旗艦の「開陽」でした。オランダで建造されたこの「開陽」は、榎本自身が留学先のオランダから持ち帰ってきたもので、当時最高の戦闘能力をそなえていました。しかし、惜しまれることに、前年の11月に江差沖で暴風にあおられ、座礁沈没してしまったのです。箱館政府軍にとっては、はかりしれないほどの痛手でした。

——— それに代わるものとして「甲鉄」がどうしてもほしかったわけですね。

山村 「甲鉄」は原名を「ストーン・ウォール」といい、船体が鉄板で覆われた最新鋭の装甲鑑でした。これが手に入りさえすれば、海軍の戦力という点で箱館政府軍は再び優位に立つことができる。それで、「回天」以下3隻の軍艦を敵が停泊中の宮古湾に差し向けて、「甲鉄」に接舷して乗っ取ってしまおうとしたのです。

——— 「回天」には土方歳三も乗り組んでいましたね。

山村 襲撃の艦隊を率いたのは海軍奉行の荒井郁之助ですが、実際に敵艦に接舷してからの白兵戦には陸軍の兵士が必要です。そこで陸軍兵の指揮官として、またしても土方が選ばれて乗り組んだというわけです。しかし、残念ながらこの襲撃は成功しませんでした。悪天候のために3隻のうちの2隻が機関にトラブルを起こし、「回天」1隻による無謀な襲撃となってしまったからです。

——— さすがの土方も、どうすることもできなかったのですね。

山村 そうです。先の「開陽」の沈没といい、この宮古湾海戦の敗北といい、箱館政府軍はあまりにも天候に恵まれていませんでした。こうまで天運に見放されては、勝利はおぼつきません。実戦では無類の強さを誇る土方も、これには嘆息するばかりだったことでしょう。

——— 敵艦奪取に失敗したあと、箱館政府軍はどのような作戦をとるのですか?

山村 もう作戦らしい作戦はありません。あとは敵が上陸してくるのを待って、陸で迎え撃つのみ。そのために兵を海岸線に分散して配置し、どこから敵がやってきてもいいように守りを固めました。

——— でも、それでは一か所にさける人数が限られてしまい、結果的にどの地点でも守備が手薄という状態になるのでは?

山村 そうなんです。かといって敵の上陸地点を絞り込むことは難しい。どちらにころんでも箱館政府軍は苦しい状況に追い込まれていたことになりますね。現に4月9日、江差の北に上陸した新政府軍は、付近の少数の守備兵を簡単に蹴散らし、内陸部への進攻を開始しています。

——— 新政府軍はそのまま一気に五稜郭に攻め込んだのですか?

山村 目標の五稜郭に向けて、軍を3つに分けて進軍しました。二股口、松前口、木古内口(きこないぐち)の3道です。これに対抗するため、箱館政府軍も兵を配備し直して3方向で迎え撃ちます。

——— 土方は二股口に出陣していますね。

山村 3道の中で二股口は箱館まで最短距離で到達できる重要地点だったので、頼りになる土方が派遣されたのです。4月13日から24日にかけて、二股口の台場山で両軍の激しい戦闘が繰り広げられました。このとき土方は、敵の4分の1ほどの兵力しかなかったにもかかわらず、驚異的な強さを発揮して新政府軍を撃退しています。土方が兵に酒を一杯づつ配って労をねぎらったというエピソードは、この戦いのときのものですね。

——— 3道のうち二股口は土方がくいとめたとして、あとの2道はどうなったのですか?

山村 土方軍だけは強かったけれど、そのほかの守備陣は簡単に突破されてしまいました。箱館政府軍も懸命に戦ったのですが、やはり多勢に無勢。兵力にまさる新政府軍の前にはかなわなかったのです。結局、二股口の土方軍もこのままでは退路を断たれるおそれがあるということで、五稜郭に引き揚げざるをえませんでした。これが5月1日のことです。

——— 自分の軍は勝っていたのに退却しなければならなかったというのは、土方にとってはくやしいことだったでしょうね。

山村 そうですね。この退却によって、土方は勝利をあきらめたふしがあります。そのころのエピソードとして、軍資金や食糧がとぼしくなった箱館政府軍が市中の商家から金品を調達しようとしたことがありました。これに閣僚の中でただ一人反対したのが土方でした。「ほんの一時しのぎに過ぎない調達をして、わが軍の名をはずかしめてはならない」といって、榎本らの行為を諫めたのです。結局、金品の調達は中止され、市中の人々は土方に深く感謝したといいます。

——— そして運命の5月11日を迎えることになるのですね。

山村 箱館政府軍では、11日に敵の総攻撃があることを情報としてつかんでいました。それで前日の10日の夜には市中の武蔵野楼という店で閣僚たちが別れの杯をかわしています。この宴に土方も参加していたと思われますが、正確なことは記録がないためにわかりません。

——— 参加していなかったとしたら、土方は何をしていたのでしょうか。

山村 明日の総攻撃にそなえて、五稜郭内でひとり静かに闘志を燃やしていたことでしょう。5月11日が、自分にとって本当に最後の戦いになるだろうことを予感していたように思います。

——— 当日の戦闘がどのように行われたかについては、ドラマのネタバレになるおそれがあるので、ここではふせておくとして…。

山村 そうなんですか(笑)。

——— はい(笑)。途中をとばして土方の最期についてうかがいます。どのような状況だったのですか?

山村 午前10時ごろのことですね。五稜郭からわずかの兵を連れて馬で出陣した土方でしたが、箱館市街に向かう途中の一本木関門付近で敵の銃弾を腹部に受けてしまいます。狙いをさだめて撃たれたものか、流れ弾的に当たったものかははっきりしていません。たまらずに落馬した土方は、そのまま立ち上がることなく息を引き取ったといいます。35年の生涯でした。これによって箱館政府軍は総崩れになり、敗北は決定的となったのです。

——— 志なかばで亡くなった土方は、やはり無念だったでしょうか。

山村 箱館戦争に勝利して、徳川の世にもう一度戻すという目的を達成できなかったことは残念だったでしょうね。しかし、近藤勇の死後、土方はたった一人で新選組を率いて戦い続け、一人の人間としては限界と思えるまでの働きぶりをみせました。最後の一日まで激しく燃えたその生き方に、悔いるところはなかったはずです。その姿を見て、あの世の近藤もよくやったと満足していたことでしょう。

——— 残された新選組は、その後、どうなったのですか?

山村 弁天台場という所で数日間、籠城していましたが、水も食糧も尽きてしまったため、五稜郭の本営より一足早く5月15日に降伏しました。このとき、籠城者の代表の永井尚志から、最後の新選組隊長として相馬主計が任命されています。相馬は若いけれども優秀な隊士だったので、戦後処理をまかされたのです。

——— 五稜郭の箱館政府が降伏したのは?

山村 それから3日後の18日のことでした。榎本が蝦夷地にみた夢は、文字どおりのはかない夢となって消えたのです。こうして戊辰戦争は終結し、日本は新しい時代を迎えることになりました。近藤勇が板橋で処刑されてからほぼ一年。土方歳三の命も北の大地に散り、新選組の男たちの物語にも幕が降ろされたのです。(終)

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2005.12.09

時代考証・山村竜也さんに聞く(パート2)

2.五稜郭入城、箱館政府の誕生
 
パート1では、土方歳三らが函館に向かうまでの状況をおうかがいしました。今回のパート2では、土方歳三らが函館に上陸し、どのような戦いを繰り広げ、どんなビジョンを持っていたのかを史実にそっておうかがいしました。

2.五稜郭入城、箱館政府の誕生
 
——— 明治元年(1868)10月12日、旧幕府軍の軍艦8隻、総勢約3000人が仙台を出航し、蝦夷地(北海道)を目指したわけですが、当時の蝦夷地の情勢はどうなっていたのですか?

山村 旧幕府時代、蝦夷地には唯一の藩として松前藩がありました。戊辰戦争が始まると一時は奥羽越列藩同盟にも加わっていたのですが、早々に脱落して、このころはすでに新政府軍に属していました。ですから土方たちが戦うべき当面の敵は、この松前藩ということになったのです。

——— 土方たち旧幕府軍は、蝦夷地のどのあたりから上陸したのですか?

山村 彼らがめざしたのは箱館の五稜郭でしたが、松前藩との衝突を避けるため、艦隊を箱館の北方に迂回させて鷲ノ木浜に上陸しました。

——— 五稜郭というのは、そもそも誰が何のために作ったものだったのでしょうか?

山村 五稜郭は、旧幕府が北方防備の拠点として4年前に築造した西洋式の城です。上空から見ると美しい星形をしていて、全周1800メートルもある巨大な要塞でした。ここを彼らは箱館における本拠地にしようと考えたのです。もっとも、そのような城があることを旧幕府軍のほとんどの者は知らなかったでしょうから、五稜郭を選んだのは蝦夷地の事情に詳しい榎本武揚だったのでしょう。

——— 無事、上陸を果たしてから五稜郭までの行程は?

山村 上陸部隊は鷲の木から2つのルートに分かれて進軍しています。最短距離で五稜郭へ向かう本道を行く軍と、海沿いを迂回して間道を行く軍です。本道軍の指揮官は大鳥圭介、間道軍は土方が率いました。すでにこのころから榎本は、陸軍の指揮をまかせられるのは大鳥と土方の2人だという意識があったようです。

——— 当然、新選組は土方と行動を共にしていたのですよね?

山村 いえ、実は土方は島田魁ら数人の隊士を護衛として従えただけで、新選組本隊は大鳥の本道軍に組み込まれていました。

——— 土方は意外に、新選組と別行動をとる場合が多い。(笑)

山村 確かにそうですね(笑)でもそのなかで、島田だけはいつも自分のそばに置いていたようです。京都の壬生浪士だったころからの同志であり、池田屋事件をはじめとするいくつもの戦いをともにしてきた島田は、土方にとっては頼りになる存在だったのでしょう。

——— 五稜郭にも松前藩の兵が駐屯していたわけですよね。入城の際には、やはり戦闘があったのですか?

山村 松前藩兵は旧幕府軍が五稜郭に向けて進軍してきたことを知り、かなわないとみて逃げ去っていました。それで10月26日、旧幕府軍はまったく無抵抗のままに五稜郭に入城することができたのです。

——— しかし土方は入城後、休む間もなく松前討伐に出陣していますね。

山村 そうなんです。五稜郭こそ手に入れることができたけれども、まだ松前藩の本拠地である松前には藩兵が駐屯している。それを討伐しない限り、蝦夷地を平定したことにはならないのです。そこで松前討伐軍が編成され、指揮官に選ばれたのが土方でした。土方の戦闘能力に、榎本が絶対の信頼を置いていることがよくわかります。結局、土方軍は11月中旬までに松前とその北方の江差を制圧し、これによって蝦夷地は完全に旧幕府軍のものとなったのでした。

——— これで津軽海峡を挟んで旧幕府軍と新政府軍が対峙するという構図になったわけですね。

山村 はい。ただ、季節がすでに冬になっていて、氷雪が戦闘を中断させることになります。春になって雪解けを迎えるまでの間、新政府軍は艦隊を北上させることができず、両軍はしばらく休戦状態となったのです。

——— その間に、旧幕府軍による箱館政府が樹立され、有名な“入れ札”(選挙)で総裁を決めたんですね。

山村 総裁となるのは、榎本しかありえない状況でしたが、西洋事情に詳しい榎本が、あえて民主主義をとりいれて選挙という形をとったのでしょう。12月下旬、士官以上の投票によって総裁選挙が行われ、大多数の予想どおり榎本が選出されています。このとき土方も、6番目に多い票数を獲得しているので、大健闘といっていいでしょう。

——— 土方の役職が、大鳥圭介の“陸軍奉行”よりも格下となる“陸軍奉行並”というのは、評価としてはどうなんでしょうか?

山村 大鳥の陸軍奉行というのも、選挙によって決定した役職ですが、旧幕府陸軍のエリートの大鳥が奉行に選出されたのは当然のことといえます。そのほうが組織も落ち着くでしょう。ただ、榎本自身は土方を高く買っていたので、その能力をいかすために奉行並として大鳥の補佐役につけたものと思われます。いわば肩書きの大鳥と、実力の土方というところでしょうか。

——— 箱館政府は軍事用の体制というよりも、国を作る体制のように見えるのですが、この組織を見る限り、榎本には新政府軍に対する戦意がどの程度まであったんでしょうか?

山村 榎本の本来の目的は、蝦夷地にいわゆる独立国を作ることでした。それを認めてもらいたいという嘆願書も新政府に提出していましたから、できれば戦いたくはなかったはずです。その意味では、ほかの旧幕府兵にくらべて戦意がとぼしかったといえるかもしれません。

——— 榎本の描いた独立国の構想とは?

山村 新政府によって徳川家の領地が大幅に削減され、多くの旧幕臣が路頭に迷いかねない事態となっていました。そんな旧幕臣たちを救済するために蝦夷地が必要だったのです。彼らを移住させて広大な土地の開拓に従事させ、その一方で北方の防備もつとめさせる。新政府にとっても必ずしも悪い話ではないと榎本は主張し、期待を込めて嘆願書を送ったのでした。

——— かつて坂本龍馬が、脱藩浪士たちをもって、蝦夷地を切り開こうと考えたことに似ていますね。

山村 その通りです。できる男たちは目のつけどころが違うというところでしょうか。龍馬の計画は実現までには至りませんでしたが、いま榎本の主導によって蝦夷地開拓は本当に手の届くところまで来たのです。

——— それで、肝心の嘆願書はどのように対処されたのですか?

山村 残念ながら聞き届けられませんでした。それどころか、完全に無視されてしまい回答さえなかったのです。蝦夷地開拓に夢を抱いていた榎本としては落胆したことでしょう。ただし、それであきらめてしまう榎本ではありませんでした。嘆願がかなわなかった場合には、戦って自治権を獲得するのみ。その覚悟ははじめから決まっていました。榎本が当時の多くの腰抜け武士と違うところは、そういうところなのです。

——— 土方はどのような心境だったのでしょうか?

山村 土方はもとより独立国うんぬんではなく、新政府軍にあくまでも抵抗するために蝦夷地におもむいていました。仮に嘆願が認められて自治権を得たとしても、おそらく土方はそれにあきたらずに新政府軍に攻撃を仕掛けることを主張したでしょう。だから、土方にとっては両軍の話し合いが決裂したことは、むしろ望むところだったに違いありません。年明けの明治2年(1869)3月、雪解けとともに新政府軍が進攻を開始し、いよいよ土方歳三の最後の戦いが始まるのです。

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2005.11.25

時代考証・山村竜也さんに聞く(パート1)

大河ドラマ『新選組!』、正月時代劇『新選組!! 土方歳三 最期の一日』の時代考証を担当された歴史家の山村竜也さん。新選組にかけては誰よりも詳しい先生ですが、そもそものきっかけは18歳の時に観たテレビドラマ『燃えよ剣』の再放送。栗塚旭さんが演じた土方歳三のカッコよさに惚れ込み、大学では〈中央大学新選組研究会〉を結成。卒業後も新選組にのめり込む日々をおくることになったそうです。
そんな山村竜也さんに、土方が箱館で最期の一日を迎えるまでの足跡、新政府軍との攻防など、ドラマの背景となる当時の状況を史実にそってうかがいました。

1.土方の転戦、旧幕府軍との出会い、そして蝦夷地へ

yamamura

——— 大河ドラマ『新選組!』の最終回で近藤勇が処刑される瞬間、土方は戦場で戦っている姿が描かれていました。あのころ、土方はどこで何をしていたんですか?

山村 近藤が流山で新政府軍に投降したのが慶応4年(1868)4月3日です。その直後、土方は新選組本隊とは別行動をとり、下総の国府台というところに集結していた旧幕府の脱走軍に個人で参加。北関東を転戦していました。近藤が処刑された25日は、今市から北に向かって行軍していたころでしょう。

——— その脱走軍というのは?

山村 江戸城の明け渡しを前に江戸を脱出した、新政府軍に対する抵抗勢力で、その中心人物が大鳥圭介です。土方は、わずかな側近だけを引き連れて個人で参加したのですが、すぐにその集団の参謀に選ばれています。総督の大鳥は自分の手勢も多数連れていたし、旧幕府時代にも歩兵奉行をつとめていた人物ですから、いわゆるエリートです。一方の土方は、島田魁らわずか6人を連れていっただけ。バックボーンがほとんどないのに全軍の幹部に選出されたというのは、京都時代の新選組副長としての名声が大きかったからでしょうね。

——— そのころ新選組本隊はすでに会津に向かっていたんですね。

山村 そうです。本隊のほうは、流山で近藤が投降したあと会津に直行し、4月20日過ぎには現地で130人規模の集団として復活していました。このとき隊長となっていたのが、副長助勤ただ一人の生き残りの斎藤一です。

——— その会津で土方が再び新選組に合流したのですね?

山村 旧幕府脱走軍に加わって北関東を転戦した土方は、宇都宮の戦いで足に負傷したあと戦列を離れ、4月29日に会津城下に入っています。ただ土方はすでに脱走軍全軍の中で重きをなす存在であったし、足の負傷もあったため、新選組の隊長はその後も引き続き斎藤がつとめることになります。会津戦争の前半は斎藤が隊長として新選組を率い、後半は負傷の癒えた土方が隊長である斎藤の上役という形で指揮をとっていたのです。

——— 会津での戦争では新政府軍に大敗してしまいますね。斎藤一は最後まで会津と命運を共にしようとしていますが、そこで土方がとった行動は?

山村 8月23日、北方の庄内藩に援軍を要請するために会津を去っています。庄内は会津と並ぶ旧幕府方の大藩です。このとき新選組本隊は大鳥圭介に預け、土方はまたしても単身での行動でした。しかし、途中に位置する米沢藩がすでに新政府軍への降伏を決定していたため、土方は米沢領で足止めされて、結局庄内へは行くことができませんでした。そこで最後の期待を込めて土方が向かったのが、仙台藩だったのです。

——— いよいよ品川沖から旧幕府艦隊を率いて仙台入りしていた榎本武揚との出会いですね。

山村 土方と榎本が初めて出会ったのは、大坂から江戸に向かう富士山丸の船中だったという説もありますが、はっきりしたことはわかりません。少なくとも彼らが親交を深めたのがこの仙台であったのは確かでしょう。9月3日、仙台城内で開かれた旧幕府軍の軍議に二人が参加していたというのが、記録の上では初めての接触ということになります。

——— 軍議に参加していたのはどういう顔ぶれですか?

山村 旧幕府の脱走軍のほか、新政府軍に抗戦するために「奥羽越列藩同盟」という軍事同盟を結んだ奥羽、越後の諸藩です。ただし、すでに脱落して新政府軍に寝返った藩も多かったので、同盟は有名無実になりかけていました。

——— 榎本は土方を高く評価していたとのことですが……。

山村 軍議の席で榎本は、全軍の総督には真に実力のある者をつけるべきとして、土方の起用を主張します。出会ってまだ日も浅いはずであるのに、この信頼の厚さはどうでしょう。土方の何かが榎本の心をつかみ、二人は無二の同志となっていたようです。

——— それなのに土方の総督就任はなかったわけですね。

山村 肝心の土方がそこで「総督を引き受けるには一つ条件がある」として、全軍の兵士に対する生殺与奪の権を自分に与えてほしいと発言したのです。強い軍隊をつくるには軍令を厳しくしなければなりません。「違反者はこの歳三が三尺の剣にかけて斬ってしまわねばならない」というのが土方の考えでした。これを聞いた一座の者は、自分の命は藩主のものだなどと口々に言い出して、土方に賛成する者は誰もいなくなってしまったといいます。それで結局、土方の総督就任はご破算になってしまいました。

——— 土方は本当にそれほど厳しい軍隊をつくろうとしたのでしょうか。諸藩士を威嚇しただけということは?

山村 土方は、こういうときに小細工をろうするような男ではないと思います。戦いを始める前から軍令を守れるかどうかわからないといっているような腰の引けた兵士たちでは、勝利はおぼつきません。一同が本当に死にものぐるいで戦うつもりがあるのなら、自分は喜んで総督を引き受けるが、そうでないのなら、とてもやっていられないというのが土方の偽らざる気持ちだったでしょう。軍令違反は死。それが強い軍隊をつくるために絶対に必要なことであることを、京都のころから知り抜いていたのが土方でした。

——— この軍議のあとの行動は?

山村 軍議の直後、9月8日に慶応4年は明治元年と改められますが、12日にはついに仙台藩までもが降伏を決定してしまいます。これによって榎本は本州での抗戦をあきらめ、かねてからあたためていた蝦夷地(北海道)渡航の計画を明らかにしたのです。

——— 榎本は江戸から旧幕府艦隊を奪って仙台に来た時から、さらに北へ行くことを考えていたということですか?

山村 もし本州で食い止められないなら、海を渡って蝦夷地に向かおうという意識がはじめからありました。実は榎本には、若いころに視察の仕事で蝦夷地に渡った経験があり、ほかの者とは違って現地に土地勘があったのです。今は未開の土地ではあるけれど、蝦夷地には無限の開拓の可能性が秘められていると考えていたんですね。

——— 榎本武揚、大鳥圭介、土方歳三だけでなく、ほかの新選組のメンバーも蝦夷地への渡航を決意して仙台から船に乗ったのですか?

山村 土方に遅れて新選組本隊も仙台入りしていますが、そこで降伏した者たちもありました。しかし、土方とともに北へ向かうことを希望する者たちは、最後の戦いに向けて軍艦に乗り込みます。また、近藤勇に従って捕縛されていた相馬主計、野村利三郎も近藤の処刑後に解放され、旧幕府軍の一員としてこの仙台にやってきていました。近藤の仇討ちに燃える彼らも新選組に復帰し、土方とともに蝦夷地へ向かったのです。

——— 仙台から蝦夷地へ、その規模は?

山村 軍艦8隻、総勢約3000人が蝦夷地を目指し、10月12日に仙台を出航しました。

―― 土方の決意はどのようなものだったのでしょうか?

山村 土方には、徳川家を滅ぼそうとする新政府軍の横暴がどうしても許すことができませんでした。ここで戦いをやめたら、自分がいままでやってきたことが無意味になってしまう。近藤とともに創り上げた新選組も、何のために存在したのかがわからなくなってしまうのです。だから、土方はあくまでも戦うことを決意しました。たとえ最果ての地に散ることになろうとも、命ある限り戦い続ける。それが土方の生き方だったのです。

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