時代考証・山村竜也さんに聞く(パート3)
3.新政府軍との戦い、土方歳三の最期
山村竜也さんによるインタビューシリーズ最終回は、宮古湾海戦の話と土方歳三が最期を迎えた日の前後についてお話いただきました。このインタビューシリーズを読んで、正月時代劇『新選組!!土方歳三 最期の一日』を10倍楽しんで下さい。
——— 明治2年(1869)春の雪解けとともに新政府軍が北上してきますが、そこで箱館政府軍は敵の先手を取る行動を起こしていますね。
山村 はい。榎本武揚らの首脳陣が、仙台の北の宮古湾に停泊する新政府軍の艦隊に奇襲をかけ、敵の最新鋭鑑「甲鉄」を奪い取る計画を立てたのです。
——— 宮古湾の奇襲と呼ばれる海戦ですね。なぜ「甲鉄」を狙ったのですか?
山村 箱館政府軍の軍艦は8隻ありましたが、本当に頼りになるのは旗艦の「開陽」でした。オランダで建造されたこの「開陽」は、榎本自身が留学先のオランダから持ち帰ってきたもので、当時最高の戦闘能力をそなえていました。しかし、惜しまれることに、前年の11月に江差沖で暴風にあおられ、座礁沈没してしまったのです。箱館政府軍にとっては、はかりしれないほどの痛手でした。
——— それに代わるものとして「甲鉄」がどうしてもほしかったわけですね。
山村 「甲鉄」は原名を「ストーン・ウォール」といい、船体が鉄板で覆われた最新鋭の装甲鑑でした。これが手に入りさえすれば、海軍の戦力という点で箱館政府軍は再び優位に立つことができる。それで、「回天」以下3隻の軍艦を敵が停泊中の宮古湾に差し向けて、「甲鉄」に接舷して乗っ取ってしまおうとしたのです。
——— 「回天」には土方歳三も乗り組んでいましたね。
山村 襲撃の艦隊を率いたのは海軍奉行の荒井郁之助ですが、実際に敵艦に接舷してからの白兵戦には陸軍の兵士が必要です。そこで陸軍兵の指揮官として、またしても土方が選ばれて乗り組んだというわけです。しかし、残念ながらこの襲撃は成功しませんでした。悪天候のために3隻のうちの2隻が機関にトラブルを起こし、「回天」1隻による無謀な襲撃となってしまったからです。
——— さすがの土方も、どうすることもできなかったのですね。
山村 そうです。先の「開陽」の沈没といい、この宮古湾海戦の敗北といい、箱館政府軍はあまりにも天候に恵まれていませんでした。こうまで天運に見放されては、勝利はおぼつきません。実戦では無類の強さを誇る土方も、これには嘆息するばかりだったことでしょう。
——— 敵艦奪取に失敗したあと、箱館政府軍はどのような作戦をとるのですか?
山村 もう作戦らしい作戦はありません。あとは敵が上陸してくるのを待って、陸で迎え撃つのみ。そのために兵を海岸線に分散して配置し、どこから敵がやってきてもいいように守りを固めました。
——— でも、それでは一か所にさける人数が限られてしまい、結果的にどの地点でも守備が手薄という状態になるのでは?
山村 そうなんです。かといって敵の上陸地点を絞り込むことは難しい。どちらにころんでも箱館政府軍は苦しい状況に追い込まれていたことになりますね。現に4月9日、江差の北に上陸した新政府軍は、付近の少数の守備兵を簡単に蹴散らし、内陸部への進攻を開始しています。
——— 新政府軍はそのまま一気に五稜郭に攻め込んだのですか?
山村 目標の五稜郭に向けて、軍を3つに分けて進軍しました。二股口、松前口、木古内口(きこないぐち)の3道です。これに対抗するため、箱館政府軍も兵を配備し直して3方向で迎え撃ちます。
——— 土方は二股口に出陣していますね。
山村 3道の中で二股口は箱館まで最短距離で到達できる重要地点だったので、頼りになる土方が派遣されたのです。4月13日から24日にかけて、二股口の台場山で両軍の激しい戦闘が繰り広げられました。このとき土方は、敵の4分の1ほどの兵力しかなかったにもかかわらず、驚異的な強さを発揮して新政府軍を撃退しています。土方が兵に酒を一杯づつ配って労をねぎらったというエピソードは、この戦いのときのものですね。
——— 3道のうち二股口は土方がくいとめたとして、あとの2道はどうなったのですか?
山村 土方軍だけは強かったけれど、そのほかの守備陣は簡単に突破されてしまいました。箱館政府軍も懸命に戦ったのですが、やはり多勢に無勢。兵力にまさる新政府軍の前にはかなわなかったのです。結局、二股口の土方軍もこのままでは退路を断たれるおそれがあるということで、五稜郭に引き揚げざるをえませんでした。これが5月1日のことです。
——— 自分の軍は勝っていたのに退却しなければならなかったというのは、土方にとってはくやしいことだったでしょうね。
山村 そうですね。この退却によって、土方は勝利をあきらめたふしがあります。そのころのエピソードとして、軍資金や食糧がとぼしくなった箱館政府軍が市中の商家から金品を調達しようとしたことがありました。これに閣僚の中でただ一人反対したのが土方でした。「ほんの一時しのぎに過ぎない調達をして、わが軍の名をはずかしめてはならない」といって、榎本らの行為を諫めたのです。結局、金品の調達は中止され、市中の人々は土方に深く感謝したといいます。
——— そして運命の5月11日を迎えることになるのですね。
山村 箱館政府軍では、11日に敵の総攻撃があることを情報としてつかんでいました。それで前日の10日の夜には市中の武蔵野楼という店で閣僚たちが別れの杯をかわしています。この宴に土方も参加していたと思われますが、正確なことは記録がないためにわかりません。
——— 参加していなかったとしたら、土方は何をしていたのでしょうか。
山村 明日の総攻撃にそなえて、五稜郭内でひとり静かに闘志を燃やしていたことでしょう。5月11日が、自分にとって本当に最後の戦いになるだろうことを予感していたように思います。
——— 当日の戦闘がどのように行われたかについては、ドラマのネタバレになるおそれがあるので、ここではふせておくとして…。
山村 そうなんですか(笑)。
——— はい(笑)。途中をとばして土方の最期についてうかがいます。どのような状況だったのですか?
山村 午前10時ごろのことですね。五稜郭からわずかの兵を連れて馬で出陣した土方でしたが、箱館市街に向かう途中の一本木関門付近で敵の銃弾を腹部に受けてしまいます。狙いをさだめて撃たれたものか、流れ弾的に当たったものかははっきりしていません。たまらずに落馬した土方は、そのまま立ち上がることなく息を引き取ったといいます。35年の生涯でした。これによって箱館政府軍は総崩れになり、敗北は決定的となったのです。
——— 志なかばで亡くなった土方は、やはり無念だったでしょうか。
山村 箱館戦争に勝利して、徳川の世にもう一度戻すという目的を達成できなかったことは残念だったでしょうね。しかし、近藤勇の死後、土方はたった一人で新選組を率いて戦い続け、一人の人間としては限界と思えるまでの働きぶりをみせました。最後の一日まで激しく燃えたその生き方に、悔いるところはなかったはずです。その姿を見て、あの世の近藤もよくやったと満足していたことでしょう。
——— 残された新選組は、その後、どうなったのですか?
山村 弁天台場という所で数日間、籠城していましたが、水も食糧も尽きてしまったため、五稜郭の本営より一足早く5月15日に降伏しました。このとき、籠城者の代表の永井尚志から、最後の新選組隊長として相馬主計が任命されています。相馬は若いけれども優秀な隊士だったので、戦後処理をまかされたのです。
——— 五稜郭の箱館政府が降伏したのは?
山村 それから3日後の18日のことでした。榎本が蝦夷地にみた夢は、文字どおりのはかない夢となって消えたのです。こうして戊辰戦争は終結し、日本は新しい時代を迎えることになりました。近藤勇が板橋で処刑されてからほぼ一年。土方歳三の命も北の大地に散り、新選組の男たちの物語にも幕が降ろされたのです。(終)
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1976年10月31日生まれ B型






