時代考証・山村竜也さんに聞く(パート2)
2.五稜郭入城、箱館政府の誕生
パート1では、土方歳三らが函館に向かうまでの状況をおうかがいしました。今回のパート2では、土方歳三らが函館に上陸し、どのような戦いを繰り広げ、どんなビジョンを持っていたのかを史実にそっておうかがいしました。
2.五稜郭入城、箱館政府の誕生
——— 明治元年(1868)10月12日、旧幕府軍の軍艦8隻、総勢約3000人が仙台を出航し、蝦夷地(北海道)を目指したわけですが、当時の蝦夷地の情勢はどうなっていたのですか?
山村 旧幕府時代、蝦夷地には唯一の藩として松前藩がありました。戊辰戦争が始まると一時は奥羽越列藩同盟にも加わっていたのですが、早々に脱落して、このころはすでに新政府軍に属していました。ですから土方たちが戦うべき当面の敵は、この松前藩ということになったのです。
——— 土方たち旧幕府軍は、蝦夷地のどのあたりから上陸したのですか?
山村 彼らがめざしたのは箱館の五稜郭でしたが、松前藩との衝突を避けるため、艦隊を箱館の北方に迂回させて鷲ノ木浜に上陸しました。
——— 五稜郭というのは、そもそも誰が何のために作ったものだったのでしょうか?
山村 五稜郭は、旧幕府が北方防備の拠点として4年前に築造した西洋式の城です。上空から見ると美しい星形をしていて、全周1800メートルもある巨大な要塞でした。ここを彼らは箱館における本拠地にしようと考えたのです。もっとも、そのような城があることを旧幕府軍のほとんどの者は知らなかったでしょうから、五稜郭を選んだのは蝦夷地の事情に詳しい榎本武揚だったのでしょう。
——— 無事、上陸を果たしてから五稜郭までの行程は?
山村 上陸部隊は鷲の木から2つのルートに分かれて進軍しています。最短距離で五稜郭へ向かう本道を行く軍と、海沿いを迂回して間道を行く軍です。本道軍の指揮官は大鳥圭介、間道軍は土方が率いました。すでにこのころから榎本は、陸軍の指揮をまかせられるのは大鳥と土方の2人だという意識があったようです。
——— 当然、新選組は土方と行動を共にしていたのですよね?
山村 いえ、実は土方は島田魁ら数人の隊士を護衛として従えただけで、新選組本隊は大鳥の本道軍に組み込まれていました。
——— 土方は意外に、新選組と別行動をとる場合が多い。(笑)
山村 確かにそうですね(笑)でもそのなかで、島田だけはいつも自分のそばに置いていたようです。京都の壬生浪士だったころからの同志であり、池田屋事件をはじめとするいくつもの戦いをともにしてきた島田は、土方にとっては頼りになる存在だったのでしょう。
——— 五稜郭にも松前藩の兵が駐屯していたわけですよね。入城の際には、やはり戦闘があったのですか?
山村 松前藩兵は旧幕府軍が五稜郭に向けて進軍してきたことを知り、かなわないとみて逃げ去っていました。それで10月26日、旧幕府軍はまったく無抵抗のままに五稜郭に入城することができたのです。
——— しかし土方は入城後、休む間もなく松前討伐に出陣していますね。
山村 そうなんです。五稜郭こそ手に入れることができたけれども、まだ松前藩の本拠地である松前には藩兵が駐屯している。それを討伐しない限り、蝦夷地を平定したことにはならないのです。そこで松前討伐軍が編成され、指揮官に選ばれたのが土方でした。土方の戦闘能力に、榎本が絶対の信頼を置いていることがよくわかります。結局、土方軍は11月中旬までに松前とその北方の江差を制圧し、これによって蝦夷地は完全に旧幕府軍のものとなったのでした。
——— これで津軽海峡を挟んで旧幕府軍と新政府軍が対峙するという構図になったわけですね。
山村 はい。ただ、季節がすでに冬になっていて、氷雪が戦闘を中断させることになります。春になって雪解けを迎えるまでの間、新政府軍は艦隊を北上させることができず、両軍はしばらく休戦状態となったのです。
——— その間に、旧幕府軍による箱館政府が樹立され、有名な“入れ札”(選挙)で総裁を決めたんですね。
山村 総裁となるのは、榎本しかありえない状況でしたが、西洋事情に詳しい榎本が、あえて民主主義をとりいれて選挙という形をとったのでしょう。12月下旬、士官以上の投票によって総裁選挙が行われ、大多数の予想どおり榎本が選出されています。このとき土方も、6番目に多い票数を獲得しているので、大健闘といっていいでしょう。
——— 土方の役職が、大鳥圭介の“陸軍奉行”よりも格下となる“陸軍奉行並”というのは、評価としてはどうなんでしょうか?
山村 大鳥の陸軍奉行というのも、選挙によって決定した役職ですが、旧幕府陸軍のエリートの大鳥が奉行に選出されたのは当然のことといえます。そのほうが組織も落ち着くでしょう。ただ、榎本自身は土方を高く買っていたので、その能力をいかすために奉行並として大鳥の補佐役につけたものと思われます。いわば肩書きの大鳥と、実力の土方というところでしょうか。
——— 箱館政府は軍事用の体制というよりも、国を作る体制のように見えるのですが、この組織を見る限り、榎本には新政府軍に対する戦意がどの程度まであったんでしょうか?
山村 榎本の本来の目的は、蝦夷地にいわゆる独立国を作ることでした。それを認めてもらいたいという嘆願書も新政府に提出していましたから、できれば戦いたくはなかったはずです。その意味では、ほかの旧幕府兵にくらべて戦意がとぼしかったといえるかもしれません。
——— 榎本の描いた独立国の構想とは?
山村 新政府によって徳川家の領地が大幅に削減され、多くの旧幕臣が路頭に迷いかねない事態となっていました。そんな旧幕臣たちを救済するために蝦夷地が必要だったのです。彼らを移住させて広大な土地の開拓に従事させ、その一方で北方の防備もつとめさせる。新政府にとっても必ずしも悪い話ではないと榎本は主張し、期待を込めて嘆願書を送ったのでした。
——— かつて坂本龍馬が、脱藩浪士たちをもって、蝦夷地を切り開こうと考えたことに似ていますね。
山村 その通りです。できる男たちは目のつけどころが違うというところでしょうか。龍馬の計画は実現までには至りませんでしたが、いま榎本の主導によって蝦夷地開拓は本当に手の届くところまで来たのです。
——— それで、肝心の嘆願書はどのように対処されたのですか?
山村 残念ながら聞き届けられませんでした。それどころか、完全に無視されてしまい回答さえなかったのです。蝦夷地開拓に夢を抱いていた榎本としては落胆したことでしょう。ただし、それであきらめてしまう榎本ではありませんでした。嘆願がかなわなかった場合には、戦って自治権を獲得するのみ。その覚悟ははじめから決まっていました。榎本が当時の多くの腰抜け武士と違うところは、そういうところなのです。
——— 土方はどのような心境だったのでしょうか?
山村 土方はもとより独立国うんぬんではなく、新政府軍にあくまでも抵抗するために蝦夷地におもむいていました。仮に嘆願が認められて自治権を得たとしても、おそらく土方はそれにあきたらずに新政府軍に攻撃を仕掛けることを主張したでしょう。だから、土方にとっては両軍の話し合いが決裂したことは、むしろ望むところだったに違いありません。年明けの明治2年(1869)3月、雪解けとともに新政府軍が進攻を開始し、いよいよ土方歳三の最後の戦いが始まるのです。
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1976年10月31日生まれ B型






