時代考証・山村竜也さんに聞く(パート1)
大河ドラマ『新選組!』、正月時代劇『新選組!! 土方歳三 最期の一日』の時代考証を担当された歴史家の山村竜也さん。新選組にかけては誰よりも詳しい先生ですが、そもそものきっかけは18歳の時に観たテレビドラマ『燃えよ剣』の再放送。栗塚旭さんが演じた土方歳三のカッコよさに惚れ込み、大学では〈中央大学新選組研究会〉を結成。卒業後も新選組にのめり込む日々をおくることになったそうです。
そんな山村竜也さんに、土方が箱館で最期の一日を迎えるまでの足跡、新政府軍との攻防など、ドラマの背景となる当時の状況を史実にそってうかがいました。
1.土方の転戦、旧幕府軍との出会い、そして蝦夷地へ
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——— 大河ドラマ『新選組!』の最終回で近藤勇が処刑される瞬間、土方は戦場で戦っている姿が描かれていました。あのころ、土方はどこで何をしていたんですか?
山村 近藤が流山で新政府軍に投降したのが慶応4年(1868)4月3日です。その直後、土方は新選組本隊とは別行動をとり、下総の国府台というところに集結していた旧幕府の脱走軍に個人で参加。北関東を転戦していました。近藤が処刑された25日は、今市から北に向かって行軍していたころでしょう。
——— その脱走軍というのは?
山村 江戸城の明け渡しを前に江戸を脱出した、新政府軍に対する抵抗勢力で、その中心人物が大鳥圭介です。土方は、わずかな側近だけを引き連れて個人で参加したのですが、すぐにその集団の参謀に選ばれています。総督の大鳥は自分の手勢も多数連れていたし、旧幕府時代にも歩兵奉行をつとめていた人物ですから、いわゆるエリートです。一方の土方は、島田魁らわずか6人を連れていっただけ。バックボーンがほとんどないのに全軍の幹部に選出されたというのは、京都時代の新選組副長としての名声が大きかったからでしょうね。
——— そのころ新選組本隊はすでに会津に向かっていたんですね。
山村 そうです。本隊のほうは、流山で近藤が投降したあと会津に直行し、4月20日過ぎには現地で130人規模の集団として復活していました。このとき隊長となっていたのが、副長助勤ただ一人の生き残りの斎藤一です。
——— その会津で土方が再び新選組に合流したのですね?
山村 旧幕府脱走軍に加わって北関東を転戦した土方は、宇都宮の戦いで足に負傷したあと戦列を離れ、4月29日に会津城下に入っています。ただ土方はすでに脱走軍全軍の中で重きをなす存在であったし、足の負傷もあったため、新選組の隊長はその後も引き続き斎藤がつとめることになります。会津戦争の前半は斎藤が隊長として新選組を率い、後半は負傷の癒えた土方が隊長である斎藤の上役という形で指揮をとっていたのです。
——— 会津での戦争では新政府軍に大敗してしまいますね。斎藤一は最後まで会津と命運を共にしようとしていますが、そこで土方がとった行動は?
山村 8月23日、北方の庄内藩に援軍を要請するために会津を去っています。庄内は会津と並ぶ旧幕府方の大藩です。このとき新選組本隊は大鳥圭介に預け、土方はまたしても単身での行動でした。しかし、途中に位置する米沢藩がすでに新政府軍への降伏を決定していたため、土方は米沢領で足止めされて、結局庄内へは行くことができませんでした。そこで最後の期待を込めて土方が向かったのが、仙台藩だったのです。
——— いよいよ品川沖から旧幕府艦隊を率いて仙台入りしていた榎本武揚との出会いですね。
山村 土方と榎本が初めて出会ったのは、大坂から江戸に向かう富士山丸の船中だったという説もありますが、はっきりしたことはわかりません。少なくとも彼らが親交を深めたのがこの仙台であったのは確かでしょう。9月3日、仙台城内で開かれた旧幕府軍の軍議に二人が参加していたというのが、記録の上では初めての接触ということになります。
——— 軍議に参加していたのはどういう顔ぶれですか?
山村 旧幕府の脱走軍のほか、新政府軍に抗戦するために「奥羽越列藩同盟」という軍事同盟を結んだ奥羽、越後の諸藩です。ただし、すでに脱落して新政府軍に寝返った藩も多かったので、同盟は有名無実になりかけていました。
——— 榎本は土方を高く評価していたとのことですが……。
山村 軍議の席で榎本は、全軍の総督には真に実力のある者をつけるべきとして、土方の起用を主張します。出会ってまだ日も浅いはずであるのに、この信頼の厚さはどうでしょう。土方の何かが榎本の心をつかみ、二人は無二の同志となっていたようです。
——— それなのに土方の総督就任はなかったわけですね。
山村 肝心の土方がそこで「総督を引き受けるには一つ条件がある」として、全軍の兵士に対する生殺与奪の権を自分に与えてほしいと発言したのです。強い軍隊をつくるには軍令を厳しくしなければなりません。「違反者はこの歳三が三尺の剣にかけて斬ってしまわねばならない」というのが土方の考えでした。これを聞いた一座の者は、自分の命は藩主のものだなどと口々に言い出して、土方に賛成する者は誰もいなくなってしまったといいます。それで結局、土方の総督就任はご破算になってしまいました。
——— 土方は本当にそれほど厳しい軍隊をつくろうとしたのでしょうか。諸藩士を威嚇しただけということは?
山村 土方は、こういうときに小細工をろうするような男ではないと思います。戦いを始める前から軍令を守れるかどうかわからないといっているような腰の引けた兵士たちでは、勝利はおぼつきません。一同が本当に死にものぐるいで戦うつもりがあるのなら、自分は喜んで総督を引き受けるが、そうでないのなら、とてもやっていられないというのが土方の偽らざる気持ちだったでしょう。軍令違反は死。それが強い軍隊をつくるために絶対に必要なことであることを、京都のころから知り抜いていたのが土方でした。
——— この軍議のあとの行動は?
山村 軍議の直後、9月8日に慶応4年は明治元年と改められますが、12日にはついに仙台藩までもが降伏を決定してしまいます。これによって榎本は本州での抗戦をあきらめ、かねてからあたためていた蝦夷地(北海道)渡航の計画を明らかにしたのです。
——— 榎本は江戸から旧幕府艦隊を奪って仙台に来た時から、さらに北へ行くことを考えていたということですか?
山村 もし本州で食い止められないなら、海を渡って蝦夷地に向かおうという意識がはじめからありました。実は榎本には、若いころに視察の仕事で蝦夷地に渡った経験があり、ほかの者とは違って現地に土地勘があったのです。今は未開の土地ではあるけれど、蝦夷地には無限の開拓の可能性が秘められていると考えていたんですね。
——— 榎本武揚、大鳥圭介、土方歳三だけでなく、ほかの新選組のメンバーも蝦夷地への渡航を決意して仙台から船に乗ったのですか?
山村 土方に遅れて新選組本隊も仙台入りしていますが、そこで降伏した者たちもありました。しかし、土方とともに北へ向かうことを希望する者たちは、最後の戦いに向けて軍艦に乗り込みます。また、近藤勇に従って捕縛されていた相馬主計、野村利三郎も近藤の処刑後に解放され、旧幕府軍の一員としてこの仙台にやってきていました。近藤の仇討ちに燃える彼らも新選組に復帰し、土方とともに蝦夷地へ向かったのです。
——— 仙台から蝦夷地へ、その規模は?
山村 軍艦8隻、総勢約3000人が蝦夷地を目指し、10月12日に仙台を出航しました。
―― 土方の決意はどのようなものだったのでしょうか?
山村 土方には、徳川家を滅ぼそうとする新政府軍の横暴がどうしても許すことができませんでした。ここで戦いをやめたら、自分がいままでやってきたことが無意味になってしまう。近藤とともに創り上げた新選組も、何のために存在したのかがわからなくなってしまうのです。だから、土方はあくまでも戦うことを決意しました。たとえ最果ての地に散ることになろうとも、命ある限り戦い続ける。それが土方の生き方だったのです。
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1976年10月31日生まれ B型






